2022年1月~12月
問い合わせ番号:16225-1153-4950 更新日:2022年12月13日
「宮永岳彦記念美術館」では、宮永作品を順次、展示しています。
より多くの皆様に、この貴重な文化芸術資源を知っていただくため、「Miyanagaコレクション」と題して、「広報はだの」とともに宮永作品の紹介をしていきます。
『日本橋』昭和57月12月号
解説
東京都日本橋地域のタウン情報誌「日本橋 1982年12月号」の表紙画です。
鼻筋が通り艶やかでぷっくりとした唇、細い眉に大きな瞳の女性がこちらのを見つめています。白い毛糸で編まれたようなフードをかぶり、そこから少し茶色い髪が見え、おでこを出して凛とした雰囲気。背景にあるポインセチアとゴールドに施されたヒイラギの葉が、季節を感じさせてくれます。また、白い小さな点で方々に曲線が描かれており、それが雪やパールを連想させ輝きを放っているかのようで、女性をより魅惑的に見せています。
宮永は3年間、毎月発行の同誌の表紙を描きました。洗練された女性の生き生きとした表情と、季節に合わせたモチーフを効果的に取り入れ、魅力的な構図に仕上げます。表紙画では、特に目と口の表現に気を遣っていました。目は感情を、口は女性的な魅力を表すことができ、それぞれ平面の中では動きを出すための重要な要素となっています。
その後も斬新なデザインに優れた描写力と色使いで、活躍の場を広げていきました。
※ 広報はだの令和4年12月1日号に掲載予定でしたが、諸事情により見送りました。
リズム
解説
1956年、日本で「世界・今日の美術展」が開催され、最もアヴァンギャルドな世界の美術が集結すると、アンフォルメル・抽象ブームの旋風が日本画壇に吹き荒れました。それに影響を受けた宮永は「ジョルジュ・ブラックの黒の使い方を随分研究した」と語り、画風を大きく変え、様々な試みをします。
この作品では背景に黒を施し、裸婦を主題として動を描きました。色やフォルムは簡潔な画面構成にし、女性のポーズによる動きではなく、ペインティングナイフを使った大胆な画風と色面で動を表現しました。さらにここでは画面構成に加え、光に対する意識、黒の使い方に腐心した様子が見て取れます。
時代の美術思潮を敏感に感じ取り、自己の表現に取り入れようと意欲的な宮永は、海外の名立たる画家に刺激を受け、変化を恐れず多様な表現に挑み続けました。模索しながら宮永芸術を確立するまでの一端を辿りながら、バラエティー豊かな画風の変遷をお楽しみください。
※ 広報はだの令和4年11月1日号掲載予定でしたが、紙面の都合により見送りました。
憩
解説
1969年(昭和44年)、二紀会委員展に出品された作品です。背中が大きく開いた大胆な衣装と動きのあるポーズ、自身に満ちた表情を浮かべて健康的な色気を放つ女性が描かれています。
1950年代から60年代に制作された宮永の油彩画には、海外の美術思潮の影響が色濃く反映された女性像が描かれていました。しかし「憩」では、宮永が表紙画やポスターに描いていたような表情豊かで自信と意思を感じられる女性が描かれています。この後、長く模索を続けてきた油彩画においても宮永独自の画風が確立されていきます。
デザイナーとして活躍し、数多くのポスターや雑誌の表紙、挿絵などを手掛けていた宮永は50歳を目前のこの頃「純粋に自分だけの絵を描きたい。もう、その時期なんだ。」とグラフィックデザインの仕事を整理し、油彩画に専念することを決意しました。
令和4年10月1日号掲載
銀座の午後
解説
大きな肩パットにウエストを絞ったスタイルのビビットな赤い色のスーツに身を包んだ女性が立っているのは銀座のブティックの店内でしょうか。観葉植物が置かれ、後ろの鏡に映った助成も洗練された佇まいです。
この作品は1950年(昭和25年)の二紀展への出品作です。宮永は主に銀座の街を舞台にした絵を、戦後の再出発を切った1940年代から50年代初頭にかけて描きました。
当時の宮永は松坂屋銀座店宣伝部に籍を置いていました。「銀座で仕事をし、一日の大半を銀座で過ごしている。銀座は俺が描く。」との言葉通り、憧れの地である銀座の風俗に強い関心を持ち制作していました。
日本で最もファッショナブルな街とそこに集う女性たちの姿にこそ、戦争が終わったという日本人の解放感と新たな時代への希望を感じたのでしょう。
令和4年9月1日号掲載
家の光
解説
この作品はJAグループ(農業協同組合)の家庭雑誌『家の光』の挿絵です。木製のたらいに置かれた石臼と、それをほのかに照らす電球が水墨画で描かれています。
「たまゆら 昭和を想う」では、同雑誌の挿絵を他にも3点展示しており、チャンバラ時代劇に扮した素人演芸会の様子を描いたのれん、稲藁焼きをして煙がたちのぼっている風景、たくさんの樽などが並んだ農家の土間が墨の濃淡のみで表現されています。いずれも人々の会話、煙の匂い、生活音などが感じられ、何気ない昭和の暮らしをほのぼのと描いています。
宮永は、1949年に挿絵界にデビューすると好評を得、多い時には新聞や雑誌など月に30本の仕事を抱えていました。「挿絵には挿絵の美学がある。」と画家としての強い意志を持って制作に当たり、1963年44歳の時には第4回講談社挿絵賞を受賞しています。
令和4年8月1日号掲載
テナーサックスによる日本流行歌史第2集
解説
この作品は、昭和初期の歌を集めたレコードジャケットの原画です。日本はこの時期、恐慌、不景気、戦争の勃発と鬱屈としており、その反動でカフェやダンスホールが急増しました。そんな世相を反映するように、古賀政男の『酒は涙か溜息か』は大ヒットしました。
着物にエプロン姿の女性はカフェの女給と思われます。流行に敏感な宮永は、いち早く大正ロマンから昭和モダンのファッションを取り入れ、ふわりとパーマを施した髪型にイヤリングという粋な女性を描きました。
また、女性の魅惑的なまなざしと、微かに歯の見えるふっくらとした唇から、女性の色気を目と口で表現した宮永の特徴がうかがえます。そして背景のカラフルな絵具のぼかしは、華やかな反面、混沌としたこの時代の複雑さを漂わせ、独特な世界観を演出しています。
令和4年7月1日号掲載
日本シリーズ 大洋-大毎
解説
1960年(昭和35年)に川崎球場で開催された第11回日本シリーズのポスターです。ヘッドスライディングする選手が勢いのあるタッチで描かれていて、躍動感あふれる宮永らしい1枚です。
銀座松坂屋百貨店の宣伝部に所属するデザイナーとして画業をスタートさせた宮永は、包装紙、ディスプレイやポスターなどの商業デザインを精力的に手掛けました。モダンな構図や色彩、しっかりとした絵画技術に基づく美しいイラストレーションは人々の注目を集めていきます。
日本シリーズのポスターが制作された当時、宮永はグラフィックデザイナーとして商業美術界を代表する存在となっていました。特にポスターは企業や観光など様々な分野も手掛け、「太陽の昇らぬ日はあっても宮永のポスターを見ない日はない」と評されるほどでした。
令和4年6月1日号掲載
初夏の装ひ
解説
「初夏の装ひ」が描かれた昭和26年はサロン・ド・メに本店、ピカソ展、ルノアール展など、海外の同時代作家や20世紀の巨匠たちの作品が次々と日本に上陸しています。西欧の近現代美術作品の展示が盛んになることにより、日本の画家たちに多大な影響を与えました。
宮永も当時の美術思潮に敏感に反応し、「ヨーロッパのモダニズム」への傾向がこの作品からうかがえます。女性の来ている白いスーツの省略された描き方、横に置かれた観葉植物の濃いグリーンのコントラストを強調した配色など、平面的な表現からモダニズムの特徴が見て取れます。
新しい表現を模索し、巧みにそれを取り込んで、ファッショナブルで洗練された都会の女性を描き、またその内面の優雅さや気品も感じさせる、宮永独自の才がここに見られます。
令和4年5月1日号掲載
饗
解説
古典的な異国の衣装を纏ったエキゾチックな顔立ちの女性たちというその独特なモチーフで描く宮永の美人画は、古今東西の美人画の中でも異彩を放っています。
1970年代、グラフィックデザインの仕事に区切りをつけ、油彩画に専念するようになった宮永は、油彩画で異国情緒溢れる王朝ロマン的な雰囲気を表現しようと試みます。そして、その作品は、奇しくも、経済成長を遂げ、豊かになった日本人の健やかな夢や憧れとシンクロし、その豪華さ華やかさは描くほどに増し、ドラマチックなものになっていきました。
「饗」は、1984年の作品で、金泥を施した背景、豪華絢爛な衣装の女性たちが鳩と戯れるドラマチックな情景が、宮永晩年の美人画の特徴とともに、高揚する昭和という時代を表しています。
令和4年4月1日号掲載
Invitation to screen and popular music
解説
高度経済成長期(1955年から1975年頃)に入り、豊かになった日本人の生活に家でレコード鑑賞をするライフスタイルが定着すると、宮永は数多くのレコードジャケットも手掛けました。
上は映画「マイフェアレディ」、下は「昼下がりの情事」のオードリーヘップバーンです。彼女のかぶった華やかな帽子やチェロを演奏する描写に、映画のワンシーンが浮かび、流れていた音楽が聞こえてくるような臨場感があります。宮永が「目と口、ここに色気が出る」と語っているとおり、オードリーヘップバーンの艶やかで気品あふれる表情に魅了され、遠い昔の思い出が蘇ります。宮永は、ポスターや表紙画で培った技量で女優や歌手をクールでスタイリッシュに美しく描きました。
宮永の代名詞である美人画とは趣の異なる画風に宮永の振幅の広さと多才な一面がうかがえる作品です。
令和4年3月1日号掲載
鹿鳴館 翔
解説
油彩画に専念し、<民族衣装シリーズ>に取り組んだ宮永でしたが、幸運な出会いに導かれてその世界を軽やかに展開させます。
まずモデルとの出会いがありました。衣装やモデルを探して各国大使館を廻る中で、キャロルというアメリカ人女性と巡り会い、強いインスピレーションを受け、モデルに起用するようになります。さらに、キャロルに似合う衣装を探しているときに偶然鑑賞した三島由紀夫の舞台『鹿鳴館』の衣装に閃くものを感じた宮永は、豪華絢爛な衣装を纏った異国の女性像の<鹿鳴館シリーズ>を手掛けるようになります。
「鹿鳴館 翔」は、<鹿鳴館シリーズ>の作品の一つで、古典的なアプローチでありながら、レンブラント的な明暗に宮永特有の瑞々しい女性美があふれ、その美しさは見る者を魅了します。
令和4年2月15日号掲載
YUGOSLAVIA 宴
解説
グラフィックデザインの仕事を整理し油彩画に専念するようになった宮永は、フラメンコの連作から一転、ヨーロッパの民族衣装や時代衣装を纏った美しい異国の女性像を古典的な技法で描くようになります。
「流行はすぐに古くなる。流行に左右されないコスチュームはと考えた時、歴史の中で生き続けてきた民族衣装なら永遠に古くならない。」ヨーロッパの民族衣装という着想を得た宮永は、各国大使館を廻り、衣装とモデルを探します。これまで培ってきたモードへの敏感な感性を封印し、悠久の美への新たな一歩を踏み出しました。
この作品のモデルは、日本で英語教師をしていたアメリカ人女性キャロル・マクレーン。彼女の逆光に輝くブロンドの紙、美しい肌に強いインスピレーションを感じた宮永は、キャロルが帰国するまでの5年間、彼女をモデルに描き続けました。
令和4年1月1日号掲載
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